おかしな話「知らない女」
我ながらおかしな話だが、彼女が出来て5年が経つ。
そうして遂に、世間で言うところの結婚をすることになった。
こういうことにはまるで疎いから、結婚するには式を挙げねばならないものだと思い込んでいたら、「そんなことないわよ」と彼女は笑いながら、婚姻届を出すのだと教えてくれた。
自分で言うのもなんだが、僕の彼女は実に良い女だと思う。
僕のために頻繁に料理を作ってくれて、それがとても美味しい。
何よりいつも優しくて、こんな間抜けな僕を責めることもしないし、彼女の怒っている姿を見たことがない。
時には、なぜ自分にこんないい女の彼女が出来たかと、不思議に思うことさえあった。
世の中は分からないから、君たちも諦めるんじゃないぞと高笑いしながら、周囲の無粋な友人たちを励ましたりもした。
その度に彼らは「お前に彼女が出来るなんて、全くおかしな話だ」と言った。
婚姻届けというのは地域の役所で出すのだと聞いた。
それで、ある日曜日に印鑑を携え、彼女を連れて近くの役所へ出掛けた。
どうせ田舎だから他に人も無く、すぐ窓口に案内された。
奥から変に愛想の良いおばさんが出てきた。
婚姻届けを出したいと言ったら「あらあらまあまあ、それはそれは御目出度いことでございます」とか余計なことを喋りながら、いくつかの書類を出した。
自分で言うのもなんだが、僕は達筆である。
他に人から褒められたことなど何一つ無いが、これだけは自信を持って誇れる。
だからこう、人前で書類なんかを書くのは好きだ。
舞台に立って楽器を演奏する人などが、自分の特技を披露するのは恐らくこういう気持ちなんだろうと想像した。
自分の名前を書いてから、ここが腕の見せ所と、彼女の名前を書こうとした。
書こうとしたが、彼女の苗字をどう漢字で書くか、思い出せなかった。
こんな大事な時に思い出せない奴がいるか、と粘ったが、考えれば考えるほど分からなくなった。
いや冷静になってみろ、僕はいま何を考えているかさえ、よく分かっていない。
彼女の苗字の漢字、その前に、そもそも苗字が思い出せない。
これはまずいと思った。
申し訳ないとは思ったが、彼女に「すまないが、漢字が思い出せないから苗字だけ書いてくれないか」と頼んだ。
彼女は「半町」と書いた。
こんな苗字だったろうか。
ありがとう、と言って急いでペンを取り返して、彼女の名を書こうとした。
しかし、これも書けなかった。
どうしたことか、自分の彼女の名前が書けない。
こんなにおかしな話はない。
5年も一緒にいた女の名前も漢字で書けないのだ。
だが少し考えると、今度は余計に嫌な汗が出てきた。
彼女の名前を漢字で書けない、それだけで済むならまだマシだと思った。
なぜなら、そもそも僕は、この女の名前を知らないような気がしてきたからだ。
僕は取り乱したまま、女の名前をああでもない、こうでもないと必死に吟味したが、どれも違う気がした。
すっかり混乱してしまって、ついに「やっぱり名前も自分で書いてくれ」と言ってしまった。
彼女は怒り出すでもなく「将利」と書いた。
「半町将利」。
僕はこんな奴を知らない。
「これは何と読むのか?」と咄嗟に尋ねると、彼女は「はんまちさとし」と言った。
聞かない名だ。
それに「さとし」なんて男らしい名前の女がいるのか?
だが今までにこの女を何と呼んできたか、まるで思い出せないから、この女は半町将利に違いない。
では、今僕の隣にいるこの女は一体何なのだ。
知らない女は僕の顔を覗き込みながら、いつまでもニタニタ笑っていた。